
今昔さんぽ〜旧石器時代から近世までの盛岡の暮らし〜
2025.05.19
盛岡市本宮にある「盛岡市遺跡の学び館」は、盛岡市内で見つかった遺物や貴重な資料を見ることが出来る施設。
発掘された土器やアクセサリーを見ることで、当時の盛岡に住む人々がどんな暮らしで、どんな宗教観を持っていたかを学ぶことができますよ。
発掘された土器やアクセサリーを見ることで、当時の盛岡に住む人々がどんな暮らしで、どんな宗教観を持っていたかを学ぶことができますよ。
※放送時点の情報です。
盛岡には遺跡がいっぱい!

やって来たのは盛岡市本宮の「盛岡市遺跡の学び館」。
盛岡市内の遺跡から発掘調査された土器・石器・陶磁器等の出土品や、その調査資料を時代ごとに紹介・展示している施設です。
盛岡市内の遺跡から発掘調査された土器・石器・陶磁器等の出土品や、その調査資料を時代ごとに紹介・展示している施設です。

盛岡市内で出土した旧石器時代から近世にかけての遺物の数々が展示されているのですが、盛岡市にはおよそ790箇所もの遺跡があり、そのうち約460箇所が縄文時代の遺跡の遺跡なのだとか。

出土品そのものだけではなく、こちらの竪穴住居のように発掘調査の成果をもとに復元し、見た人がよりイメージしやすいように当時の暮らしを再現したものもありますよ。
日本最大級!巨大な縄文土器

突然ですがここでクイズ!
こちらの大きな土器、盛岡市内のどこの地域から出土したものでしょうか?
こちらの大きな土器、盛岡市内のどこの地域から出土したものでしょうか?

正解は「盛岡市大館町」
こちら土器が出土した「大館町遺跡」は、約5000〜4000年前の縄文時代の中頃の遺跡です。
こちら土器が出土した「大館町遺跡」は、約5000〜4000年前の縄文時代の中頃の遺跡です。

高さが93cmもあり、その大きさは日本最大級。
これだけ大きな土器なので日常的に使われていたものではなく、お祭りのような特別な時に使用されていたのではないかと言われています。
これだけ大きな土器なので日常的に使われていたものではなく、お祭りのような特別な時に使用されていたのではないかと言われています。
盛岡の遺跡には◯◯がいっぱい!

縄文時代からもう1問!
盛岡市の縄文時代の遺跡からは、ある石がたくさん見つかっています。その石とは?
盛岡市の縄文時代の遺跡からは、ある石がたくさん見つかっています。その石とは?

正解は「翡翠」
翡翠は出土量が極めて少なく、通常では1つの遺跡から1〜2点ほどしか出土しないそうなのですが、盛岡市内では20数点も出土しているとのこと。
中でも「川目遺跡」からは10数点もの翡翠が出土したそうです。
翡翠は出土量が極めて少なく、通常では1つの遺跡から1〜2点ほどしか出土しないそうなのですが、盛岡市内では20数点も出土しているとのこと。
中でも「川目遺跡」からは10数点もの翡翠が出土したそうです。

なぜ盛岡でこれほど多くの翡翠が見つかるのかという点については、「産地であることが知られている新潟県から持ち込まれた」という説と、「周辺地域に翡翠の産地があったのではないか」という説があり、現在調査中とのことです。
これらの翡翠の用途としては、亡くなった方と一緒に埋葬した副葬品ではないかと考えられていますよ。
これらの翡翠の用途としては、亡くなった方と一緒に埋葬した副葬品ではないかと考えられていますよ。
奈良・平安・鎌倉時代の進化した土器

続いてやって来たのは約1400〜800年前の出土品のコーナー。

奈良〜平安時代になると住居に「かまど」が作られるようになり、かめに水を入れて煮炊きなどの調理を行うようになりました。

この時代の特徴的な土器が、こちらの「甑(こしき)」という道具。
底にたくさん穴が空いており、他の土器と組み合わせることで蒸し器として使うことができたそうです。
底にたくさん穴が空いており、他の土器と組み合わせることで蒸し器として使うことができたそうです。

ここで平安〜鎌倉時代の出土品から出題。
この「かわらけ」という土器は、ある特徴的な使われ方がされていました。それはどんな使い方でしょう?
この「かわらけ」という土器は、ある特徴的な使われ方がされていました。それはどんな使い方でしょう?

正解は「使い捨て」
儀式や宴会などでお酒を入れて使っていたもので、素焼きで安価であること、清浄の象徴であることから再利用をしなかったそうです。
平泉の方では、このかわらけが大量廃棄された遺構も見つかっているそうですよ。
儀式や宴会などでお酒を入れて使っていたもので、素焼きで安価であること、清浄の象徴であることから再利用をしなかったそうです。
平泉の方では、このかわらけが大量廃棄された遺構も見つかっているそうですよ。
江戸時代の由緒ある遺物

時は移ろい江戸時代のコーナーへ。早速ですが江戸時代からの出題です。
こちらは盛岡のある史跡の瓦の一部。その史跡とはいったい何でしょう?
こちらは盛岡のある史跡の瓦の一部。その史跡とはいったい何でしょう?

江戸時代の盛岡といえば…そう、正解は「盛岡城」!
お城のやぐらに葺かれていた瓦で、南部氏の向かい鶴の家紋「双鶴文」が入っています。
お城のやぐらに葺かれていた瓦で、南部氏の向かい鶴の家紋「双鶴文」が入っています。

寒冷地でも割れにくいように、鉄分を含んだ釉薬をかけた「赤瓦」という種類の瓦が使用されていました。

その隣に展示されている大きな壺は、「盛岡南部 三代藩主 南部重直」の墓所を調査した際に見つかった骨壷。

墓所には一緒に「慶長小判」が12枚埋葬されていました。
理由は定かではありませんが、三途の川の渡し賃としてや、「あの世に行っても幸せに暮らせますように」という願いが込められていたのではないか、とのことです。
理由は定かではありませんが、三途の川の渡し賃としてや、「あの世に行っても幸せに暮らせますように」という願いが込められていたのではないか、とのことです。
どうやって遺跡を発見するのか?
現在は残念ながら終了してしまいましたが、先日までこちらの施設では、この1年の調査成果を展示する企画展を開催していました。

最後のクイズはその企画展から。

盛岡市緑が丘の縄文遺跡「右京長根遺跡」では、人工的に掘られたある穴が見つかっています。
この穴はいったい何のために掘られた穴でしょう?
この穴はいったい何のために掘られた穴でしょう?

正解は「動物を捕獲するためのおとし穴」
縄文時代は狩りをして暮らしていた時代。イノシシや鹿を獲るために穴を掘っていたんですね。
縄文時代は狩りをして暮らしていた時代。イノシシや鹿を獲るために穴を掘っていたんですね。

でも発掘する前は穴の周りも全て土。なぜ穴があることが分かるのか不思議ですよね。
穴の周りと穴の中では違う土なので、土の色の違いなどを見て感じた違和感から掘り進め、こういった遺跡を発見するそうです。
豊富な知識・経験・観察眼が必要な作業なんですね。
普段私たちが暮らしている地面の下にある、昔の人々がそこに生きていた痕跡。
盛岡の悠久のロマンが詰まった「盛岡市遺跡の学び館」で、地域の歴史を学んでみませんか?
穴の周りと穴の中では違う土なので、土の色の違いなどを見て感じた違和感から掘り進め、こういった遺跡を発見するそうです。
豊富な知識・経験・観察眼が必要な作業なんですね。
普段私たちが暮らしている地面の下にある、昔の人々がそこに生きていた痕跡。
盛岡の悠久のロマンが詰まった「盛岡市遺跡の学び館」で、地域の歴史を学んでみませんか?
お問い合わせ
盛岡市遺跡の学び館
【住】盛岡市本宮字荒屋13-1
【TEL】019-635-6600
【営】9:00~17:00(入館は16:30まで)
【休】月曜日・毎週最終火曜日
【入館料】一般 200円 小・中学生 100円
【住】盛岡市本宮字荒屋13-1
【TEL】019-635-6600
【営】9:00~17:00(入館は16:30まで)
【休】月曜日・毎週最終火曜日
【入館料】一般 200円 小・中学生 100円
動画はこちら!

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